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本多謙三は、経済学者左右田喜一郎(1881~1927)の弟子筋に当りますが、経済学ではなく科学方法論に関心を向けていたようです。纏まった研究・著作を残せなかった故、思想史の中に位置づけられる評価がない、といいますか、近代日本思想史の中に席が設けられていない観があります。極く一部、久野収などが評価をし、戦後、著作を発掘し、冊子に収めています。『現象学と唯物弁証法』がそれです。これを読むと、当時として彼が最先端の位置に居ただろうことが判ります。それが評価につながらないのは、量的な問題もあるとは思いますが、日本がその後進んだ方向が、彼の志向したものとは逆であったためではないでしょうか。

彼の時代は、優秀な人材は多く海外に留学し、その成果をもって大学なりに迎えられるという道をたどっています。彼の場合も、肺病を患わなかったならば、或はそういう道もあったのかも知れません。彼は代りに、親の資力で多くの文献を取り寄せ、研究した、という事のようです。

社会史的思想史(現代)

岩波講座『哲学』のために書き下ろされたもの

本多謙三論文集2

『新興科学の旗のもとに』(1929年)から五件、経済哲学の一傾向、浪漫的社会経済観批判、哲学文献散見、社会における法則、メーリング・フォイエルバッハ小伝、フォイエルバッハのヘーゲル批判

本多謙三論文集3

以下11件と付録を収録しました。

哲学新刊漫録 (『企業と社会』1927.8)

三木清氏の近業二つ(『思想』1929.4)

歴史の形而上学的構造??三木清氏著「歴史哲学」を読んで(『一橋新聞』1932.6.29)

哲学の新転向??三木清氏著「歴史哲学」について(『思想』1932.8)

わが国におけるマルクス思想研究の発展(『教育科学講座』収録)

唯物論と実践(『理想』1930.3)

唯物論の実践と研究(『改造』1932.11)

唯物論史研究を志して(『唯物論研究』1932.11創刊号)

学派としての西田哲学(『思想』1936.1)

数理的自然科学の観念性(『プロレタリア科学』1930.4)

法則について(『唯物論研究』1933.2)

附・『新興科学の旗のもとに』総目次

附・『プロレタリア科学』目次,1929.11~1930.12

附・『唯物論研究』目次,1932.11~1933.3

附・戸坂潤著『三木清氏と三木哲学』

本多謙三論文集4 哲学論考一

主要哲学論文集

形式化と普遍化 (『哲学研究』1926.9)

非人称判断に就て(『思想』1927.1)

哲学とは何か(『理想』1932.6)

思想的危機と哲学(『理想』1932.11)

誤謬、偶然、運命(『帝大新聞』1935.6.3, 10)

表現としての身体と実存としての身体(『思想』1935.5, 6)

偶然論の必要とその濫用(『中央公論』1935.11)

主部の論理と客部の論理(『東京商大予科入学60周年記念文集』)

具体的思考と抽象的思考(『思想』1937.2 ,3)

論理学通説(理想社『新哲学講座』)

存在の論理より行為の論理へ(『思想』1938.4)

附・中村克己「Impersonalienに関する論争に対する一Beitrag」

附・石原純「偶然論と文学」

附・石原純「神は偶然を愛する」

附・石原純「偶然の問題」

本多論文集5 哲学論考二

現象学と弁証法(『思想』1929.10)</br>

哲学の社会学化(『一橋新聞』1930.1.1)</br>

現象学の社会学的帰結(『哲学年報』1930)</br>

大衆人間(『理想』1931.10)</br>

後退する弁証法(『中央公論』1932.6)</br>

自然弁証法と其論理(『理想』1930.7)</br>

近代自然科学と実践(『理想』1931.5,6)</br>

ヘーゲルに於ける二つの方向??百年忌に際して(『一橋新聞』1931.11.14)</br>

ヘーゲルの自然哲学(『ヘーゲル哲学解説』1931)</br>

有機的自然観(岩波講座『哲学』1932)</br>

新興階級の哲学(『経済往来』1930.8)</br>

官学教授マルクシスト(『法律春秋』1931.2)</br>

人文主義教育の限界(『法律春秋』1931.11)</br>

一九三一年のわが哲学界を回顧して(『理想』1932.1)</br>

哲学時評(『思想』1932.5~9)</br>

哲学と時評(『帝大新聞』1933.4.24)</br>

教養としての哲学と職業としての哲学(『一橋新聞』1933.9.25)</br>

ナチスとドイツ哲学(『東京朝日新聞』1936.10.27~30)</br>

本年思想界の回顧(『神戸商大新聞』193612.20)</br>

哲学者の社会観(『改造』1937.7)</br>

審美的と実存的(『一橋文芸』1933.1)</br>

知識層の思想検討(『報知新聞』1936.11.3,4)</br>

文化主義と人文主義(『日本評論』1936.1)</br>

妥当性といふことについて(『一橋新聞』1936.12.14)</br>

悪の問題(『饗宴』1936.12)

本多謙三論文集 6

経済哲学・その他の論文、書評、日記を集めました。

貨幣の存在論

貨幣に於ける社会性と歴史性

以上2編が、師である左右田喜一郎を越えようと格闘するデビュー作です。

『経済哲学』を書き上げようとして果たせなかった断片もいくつかあります。

本多謙三論文集7

雑誌『思想』記事「海外哲学思潮」集

本多謙三論文集8

『論理学初歩』:本多謙三の著として生前唯一刊行された単行本

本多謙三は、経済学者左右田喜一郎(1881~1927)の弟子筋に当りますが、経済学ではなく科学方法論に関心を向けていたようです。纏まった研究・著作を残せなかった故、思想史の中に位置づけられる評価がない、といいますか、近代日本思想史の中に席が設けられていない観があります。極く一部、久野収などが評価をし、戦後、著作を発掘し、冊子に収めています。『現象学と唯物弁証法』がそれです。これを読むと、当時として彼が最先端の位置に居ただろうことが判ります。それが評価につながらないのは、量的な問題もあるとは思いますが、日本がその後進んだ方向が、彼の志向したものとは逆であったためではないでしょうか。
彼の時代は、優秀な人材は多く海外に留学し、その成果をもって大学なりに迎えられるという道をたどっています。彼の場合も、肺病を患わなかったならば、或はそういう道もあったのかも知れません。彼は代りに、親の資力で多くの文献を取り寄せ、研究した、という事のようです。
土田杏村は、ある時新聞に、期待の若手3人として、三木清、戸坂潤と、本多謙三の名を挙げています。自分も病弱であった杏村は、本多が健康に勝れないのを気遣う記述を残しています。

本多謙三略歴
1898.11.30 神戸市、父・本多一太郎、母・あい子の長男として生まれる。
1905.5 早稲田小学校の転校、父親の育成方針で、国際法学者寺尾享の家に起居、薫陶を受ける事になった、という。
1911.4 東京高等師範学校附属中学進学
1917.4 神戸高等商業学校(現神戸大学の前身のひとつ)予科入学
1919.8 上京中肺病を病み、翌年三月まで休学。
1921.4 東京商業大学(現一橋大学)本科入学
1922.4 左右田喜一郎のゼミナールに入る。
1923 論文「貨幣理論の現象学的考察」を雑誌『思想』7.9月号に発表。
1924.3 東京商業大学本科卒業、卒論「科学的認識の現象学」
1925.4 同大学予科、専門部講師として、論理学を講じる。中央気象台附属気性技術観養成所のドイツ語講師をする。
1926.3 28歳で中村仙子と結婚。(2男3女を授けらる)
1928.10 三木清・羽仁五郎らの『新興科学の旗のもとに』の準同人となり論文を発表。
1929.4 同大学予科教授となる。
1932.10 「唯物論研究会」の幹事。
1933.1 同会を退会。
1933.7 肺病が再発、以降病床に伏す。
1934.9 重体に陥るが持ち直す。
1937.3 同大学を退官。
1937.9 東京阿佐谷河北病院に入院
1937.10 神奈川県七里ヶ浜鈴木病院に入院。
1938.3.7 逝去。享年39歳。神戸市兵庫区南逆瀬川町真光寺に葬られる。
(以上、久野収編『現象学と唯物弁証法』(こぶし書房)より)

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