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大森義太郎(おおもり よしたろう):1898.9.26~1940.7.28、経済学者・著述家、横浜市生まれ、1922東京帝国大学経済学部卒業、1924同学部助教授、1928同大学辞職する。同時期に京大では河上肇が京大を追われたが、大森の場合は、馘首になる前に辞めてやるという調子であったらしい。その後は労農派の論客として雑誌への売文で生計を立てる。『唯物弁証法読本』(1933)が売れて生活も楽になるべき所、労農派の活動に廻すなどで晩年は生活苦であった模様だ。雑誌への検閲強化で一般紙の著述が出来なくなって後は、映画評論で食いつなぐも、1937人民戦線派攻撃で検挙される。1939病気で釈放され、1940胃ガンで死去した。享年43歳であった。

戦後社会主義協会派を指導した向坂逸郎によると、彼は学生時代から助手時代までカント派だったらしい。桑木厳翼の哲学演習にも出ていたという。第一高校から帝大、そして卒業後すぐ助手になるという秀才コースで、Emil Ledererが来日した折りにはその指導を受けたということだ。向坂が海外留学から帰ってきた頃1925には、マルクス主義に傾いていたということだ。堺利彦、山川均、猪俣津南雄らの労農派に与し、雑誌『大衆』・『労農』の発刊に関わる。改造社のマルクス・エンゲルス全集には向坂と共に取り組んだという。彼の著述に見られる大ざっぱなところは、労農派内においては機能し、意見対立的な中にあって接着的役割を果たしていたらしい。

本人による来歴:――経済学全集第47巻『唯物史観』(1932)より

一、明治三十一年九月二十六日生。生れたるは恰も父の勤務先なりし横浜なれども、父母共に東京の人なり。家は牛込の士官学校の近傍に在りき。此処に人と為れり。

一、明治四十四年東京市立余丁町小学校を卒業す。当時の恩師に本間寛先生あり。先生に依りて種々強き影響を与えられたる如く思惟す。先生は今、東京近郊に小学校長たり。

 東京府立第四中学校、第一高等学校を経て大正十一年東京帝国大学経済学部を卒業す。

一、卒業直ちに経済学部助手となる。大正十三年助教授に任ぜらる。外国語経済学を担当す。傍、日本大学に講師として経済原論、経済学史等を講ず。

 昭和三年春、日本共産党事件に縁由して所謂赤化大学教授の問題あり。遂に大学を去る。同時に日本大学をも辞す。

 爾来、専ら硯田を耕しつつあり。

一、大正十四年政治研究会に加わる。政治研究会は当時既に無産政党組織に関する市川正一、佐野文夫氏等の所謂原案派と鈴木茂三郎、黒田壽男氏等の修正案派との対立の裡にあり。鈴木氏等に加担す。

 大正十五年三月、鈴木茂三郎、黒田壽男氏等と雑誌『大衆』を創刊す。所謂福本イズムの漸く擡頭し来れるに遭い、柄鑿不相容、之と挺争す。

 昭和二年十二月、山川均、荒畑寒村、猪俣津南雄の諸氏と雑誌『労農』を創刊す。先の福本イズムの延長としての我邦左翼の極左的誤謬と執拗に闘争す。以後長く、此の極左的誤謬と、一方に於て右翼主義と闘争する事は、雑誌『労農』、所謂労農グループの絶えざる任務たりき。

 昭和七年五月、旧労農グループその他の分子に依りて雑誌『前進』の創刊せらるるに及び、その同人として現在に至る。

 一、著書として『史的唯物論』、翻訳としてマルクスの『剰余学説史』第二巻第一部あり。その他種々なる論文あり

 

 

 

唯物弁証法読本 中央公論社, 1933

戦後に黄土社から再版、更に社会主義協会出版社から新字新仮名版が出ている。PDF版としては、幾つかの関連した大森への批判、彼による反批判を収録した。永田広志からの批判は『永田広志初期論文集』を参照。

 

まてりありすむす・みりたんす 中央公論社, 1934

論文集:唯物論あるいは唯物史観に関連した論争的なものを集めている。GoogleブックスにおいてPDF版が公開されている。

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